吉本新喜劇

yosimoto

わたしは東京の品川生まれで中学から新宿の学校に通い、
渋谷の専門に行って、結婚してからは浅草や上野近辺に住み、
現在麻布十番在住だが、そもそも本籍は麻布という、
超生っ粋のウルトラ東京っ子なのだが、
なぜか大阪への笑いの文化へのあこがれと
そこにつちかわれた大阪の人達のパーソナリティと日常に
羨望と敬意を禁じ得ない。
もともと普段からアホなコトを言ったり考えてないと死ぬ
というわたし自身の特異体質から、肺病の人が空気のいいところを
求めるようにわたしのセンサーが大阪を捕らえて離さないのかもしれない。
きっかけは「吉本新喜劇」(*1)というカルチャーとの出逢いにある。
とにかく、以来、大阪へむけてアンテナがビリビリしっぱなしなのだ。
でわ、新喜劇の魅力とはなんだったのか?

吉本新喜劇が80年代後半に「やめようっかな」という
キャンペーンをはって、解散寸前となっていたそのころ、
東京のわたしに高知の友人が「もりいさん、新喜劇知ってますか?
みうらじゅんなんか帰郷の折は必ず立ち寄るんですよ」という
書き添えとともに、なにげに1話だけ入ったビデオを郵送してくれた。
屋台ものの人情喜劇の舞台だった。(*2)
特別に際だったストーリーだったわけではない。
いつも掘り出し物のレコードやビデオを入手するとわたしに送ってくれ
ていた友人は今回も、単に東京の人には「珍しいだろう」
という軽い気持ちで、ワン・オブ・新喜劇をオレにあてがってくれた
だけに違いない。

人情喜劇なんだったらふつう、泣かせる、笑わせるという
「お約束」のバランスが適度なハーモニーで展開される
おだやかな時間の流れを想像する(*3)。
しかしビデオを再生して、画面に映し出されたものは、
かなり破天荒な見たこともないセンスの舞台中継であった。
たとえばこうだ。
ヤクザに脅かされる料亭の女将と板前さんの難儀を救おうと、
立ちはだかった屋台の主人、岡八郎(当時の看板役者のひとり)が
いきりたつヤクザを前に「スキがあったらかかってこんかい!」と
持ち前のダミ声ですごむ!、
すわ立ち回り?と思ったら、彼は突如前かがみの姿勢を取り、
突き出した尻を微妙に客席の方向へ「くいっくい」と曲げながら
よろよろとしたフットワークでうごめき、
顔の前でイソギンチャクのように動かしていた自分の両手を
急に「サッ」と股ぐらにまわしたかと思うと、
その姿勢のまま尻の穴のへんをボリボリ掻き出し、
しばらくしてこちらをむいてその指先のニオイを嗅ぐと、
「くっさぁぁぁ~~~!!!」と叫んだ。
そして「どんなもんだ」というかんじで無言で胸を張る(!)。
出演者全員があまりのことにズッコケる。
わたしはいったい、画面上で、なにがおこったのか
しばらく頭真っ白で笑いも泣きも怒りもできなかった。
精神的には舞台上の出演者同様「ノック・アウト」の状態だった。
これは岡八郎十八番の「ギャグ」なのである。
いま思えば、ただただ「すばらしい!」と感動にふるえていた。
かつてこんなバカな演出があっただろうか?!
これが「闘い」のシーンなのか??立ち回りなのか?!
そもそもこのオッサンはいったい誰やねん!
うつっとるヒトだーれも知らん。
ハナシの全体が、このような、緊張と緩和が乱暴なバランスで彩られた
知らない年輩の役者さんたちの構成する約45分であった。
こんな重みのある馬鹿げた舞台が西日本圏だけが所有する特別な文化
であるという現実がとにかくショックだった。
わたしはそのショック以降、とりつかれたようにこのたった1話だけを
テープがすりきれるほど観ていた。
「この魅力はいったいなんなんだろう?!」。

karate●岡八郎(右)カラテ中

「ギャグ100連発」なるビデオがレンタル屋の棚にならんだのは
それから間もなくのことだった。
吉本新喜劇の数ある既存の過去のVTRから、上記のようなギャグ
(というか技)ばかりを編集した珍品である。
岡八郎という人のほかにもこんなに大勢の人がバカなコトをやっている・・
時代錯誤なメイクと土方のかっこうの花紀京。
むかし「てなもんや三度笠」で見かけた原哲男が現役。
入室の挨拶を自問自答で完結する、器用な役者桑原和男。
髪形、顔、センスが絶対に東京的ではない船場太郎・・・etc.
そのころ、マラソンで全国区になる前の
間寛平(*4)だけが「最近東京のメディアで見たことある人」だった。
このビデオリリースは意外なスマッシュヒットとなって、
多くの新喜劇の役者さん達が全国区で顔を知られるようになった。
しかしわたしは東京者に認知された「ア~リマセンカ」
とか「パチパチパンチ」より、その時くぎづけになったのは、
とくにコレといったギャグのない、
ハスキーボイスと甘いマスク、
ダメ男や狂った老婆の姿で特異なオーラを放つ男の姿だった。
木村進である。
この人をもっと観たいとそう思った。
めっちゃくちゃ光ってるのにぜんぜん知らない、知れない、
という「気持ちの悪さ」が快感だった。

それからぼちぼちと友人からビデオを送ってもらって
木村進が出演している「プッツンばあさん」の
芝居をこれまたくりかえしくりかえし擦り切れるほど観た。
木村進の舞台は、彼の実の母親、実娘、奥さんで構成され、
そこにいつものわき役陣が固めるといった
ほかの座長とは、じゃっかん毛色の違う舞台だった。
木村進のなにがおもしろいというのは非常に書きにくい。
とにかく、存在感のある役者さんで、身が軽く、
あらゆる状況が彼の「笑い」への材料というかんじだった。
新喜劇の役者さんはおおざっぱに分けてアドリブがさえわたる頭の
いい人と、体で勝負といった役者さんに大きく分けられるが、
木村進はその両方を兼ね備えた人に見えた。
子ぼんのうなんだなというのは、子役として舞台に出ている
当時まだ小さかった子供とのやりとりで容易にわかった。
反面、こういうファミリー構成は彼の権限なのかな、と
主張の強さみたいなものも想像したりもした。
そして、奥さんが日本人離れした濃い顔の美人だったのである。
これも目が離せなかった。

susumu●木村進のプッツンばあさん

すっかりハマッていたわたしは、関西、いや西日本出身で、
花月爆笑劇場を観ることができたと予想される地域出身の友人に逢うと
かたっぱしからこう聞いた。
「木村進はいまどうしているのか?」と。
ところが意外なことに、木村進自体を知らないという返答が多かった。
いま考えると、西日本風のイントネーションだと、出身がどこだろうと
だれそれかまわず聞いていたから、大阪以外の人にしてみれば
なじみがなかったのかもしれない。
しかし、恵まれた西日本に生まれ育ちながら木村進を「知らない」
という返答には少々「たるんどる」と思ったものだった。
また、大阪人でも若い人になるとわからないようだった。
過去の存在ということなのか・・?
「現在の消息はわからない」と前置きしながらも、さすがに大阪の友人
(女子、わたしと同世代の)にとっては小学生のころ彼は
アイドル的存在だったという。
そうだろう、そうだろう、と知りもしないその70年代をしみじみ
うれしく想像した。
わたしがカルチャーショックを受けた新喜劇の舞台中継は、大阪の人に
とっては彼らが土曜の昼に学校から帰ってくるとあたりまえにテレビ
から流れてきていた「日常」だったと異口同音に言うのだから、
東西で価値観の地域格差があってあたりまえだなあとつくづく思った。

「100連発」のビデオが好評だったのにこころよくして
「新喜劇はまだまだいける!」と踏んだ商魂たくましい吉本興業は
殴り込みと称して、東京でも頭角が出始めたダウンタウンをムリヤリ
サブに持ってきて東京公演などもしたが、そこには岡八郎も花紀京も
木村進もいてなかった。座長不在なのである。
その頃に前後してくだんの高知の友人から「吉本新喜劇名場面集」なる
図鑑を送ってもらっていて、それがわたしにとっては唯一自分と吉本
新喜劇をつなぐツールだったわけだが
つらつら読むとそこには「木村進が闘病の床にある」とあった。
同時に「岡八郎は脱退」。
たしかに昔のビデオを見ると木村進ががときどき首を曲げたり、
腕には点滴の跡があったりして
「あれ?これが病気のコトとなにか関係があるのかな」と思った。
みんながその存在を忘れてしまうほどメディアから彼をとおざけた
「闘病」とは、どういったご事情なんだろうと思った。

世の中的にもインターネットが百科事典がわりになってきたある日
わたしがいつものように「木村進」で検索して、とにかく
なんでもいいからと、手がかりを探っていると、
ついに彼の意外な「その後」が、誰かのサイトに書いてあった。
大雑把にまとめると
・・木村進は前記の吉本新喜劇の斜陽の当時、父親である九州の
喜劇役者博多淡海の3代目を襲名する披露公演の最中、
楽屋で横になったまま脳にできていた血のカタマリが原因で昏睡状態
となり、回復したもののそのまま左半身不随の寝たきりとなってしま
ったという。
わたしが新喜劇を知った少し前に倒れ、すでに10年近い闘病の床
にあったのだ。
タレントが視聴者から忘れ去られるには十分すぎる歳月である。
闘病記がちょっと前に出版されていたことを知り、もうそのアシで
神田の三省堂書店に行き「同情するなら笑うてくれ」(光文社刊)を
ゲット。店頭で停めた原チャリにまたがったまま夢中になって読破した。
彼のその後が寝たきりだった以外にも、その著書には
あの美人の奥さんが実は3番目の奥さんで、木村進が病気になると
手の平を返したようにいっしょに舞台に出ていた木村進の愛娘
(じつは2番目の奥さんの子供)をいじめるようになり、
しまいには画策した離婚話を持ちかけて逃げ、闘病でへこんだ木村進に
打撃を与えた事も書いてあった。
そんなこんなで、彼は投身自殺をしようとしたこともあったらしい。
壮絶。
笑われへんっちゅうねん。
襲いかかる島木譲二をひょいっとかわして持っていたトレーで
頭をバチーンとやっていた、ススムチャンのビックリするような
「その後」だった。
「吉本新喜劇名場面集」を読み返せば、高血圧がたたって、とある。
酒である。
きっと芝居の最中に首をちょいちょい曲げていたのは
血管がぴくぴくしていたのだろう。
その後、例の美人の奥さんが木村進と結婚する前に出ていた
にっかつロマンポルノも発見、入手。
抜けなかった・・・

99年現在、木村進は地元九州などでじゃっかん不自由な体で
復帰公演を果たしているという。
応援したい。

わたしの吉本新喜劇への思いはこうしたバックヤードのドラマと
底抜けにくだらない舞台上とのギャップが、さらに執着心を深め
てるのではなかろうか。
「わ~~~~~れ~~~~~~っ!!!」と叫んでいた室谷信男は
クチだかのどだかの病気(癌)で舞台を降り、タクシーの運転手さんを
してるという。(*5)
岡八郎もせんだって、だいぶ風貌の変わった姿で「古畑任三郎」に
ゲストで出ていたが、げっそりと痩せていた。やはり酒だという。
「昔の芸人さんは酒で身を持ち崩すんですよねえ。」
「吉本新喜劇名場面集」の編者、仲谷さんにお会いすることが
できたとき彼は半ばあたりまえのようにつぶやいた。
「ポォッ!!」の船場太郎は議員さんになって、
ロマンスグレーになっていた。
あ、これはべつにブルーな話題ちゃうわ。

いま、新しくなったよしもと新喜劇は
座長に 内場勝則 や辻本茂雄ら若手の役者(といっても3~40代)を
むかえて見事復活を遂げ、ほんとうに可笑しい密度濃い舞台を構成して
いる。
今年(99年)40周年になる、新喜劇のほとんどを見てきている役者
はバイプレーヤーに撤している桑原和男だけである。
彼はこうした栄枯盛衰をどう気持ちの中で処理してきているのだろう。
舞台を降りていった役者たちをどういう想いでインプットしているだろ
う。
お会いできる機会があったら聞いてみたいと常々思っている。
「昔の芸人さんは酒で身を持ち崩すんですよねえ。」で終わりだったり
して。(*6)

つい先日契約したケーブルテレビの「GAORA」というチャンネルでは
連日、わたしがハマッた当時の花月爆笑劇場が観られ、岡八郎が
尻を掻いている。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

*1

喜劇のお芝居。
吉本興業が1959年に旗揚げしたが、苦境にあえいでいた当時、
経営陣は舞台に出ていた人気タレント(吉本専属外のタレント、
芦屋雁之助、藤田まこと、大村崑ほか)へのギャラ節約を考え、
独自のタレントを育てる方針をかため、研究生を募集。
花紀京や岡八郎らを集め、育てた。

*2
このときすでに「花月爆笑劇場」のテーマは
「ほんわかぱっぱ、ほんわかぱっぱ」ではなくなっている。
それを大阪の同年代の友人(すでに、日常から花月爆笑劇場が
消えているひとたち)に話すと、驚く人が多い。

*3
それまで、関西の人情喜劇と言えば
東京では「藤山寛美」だった
大阪の友人は「カンミ」と言うが
わたしの見解は「カンビ」である。

*4
B&Bの洋七の実験的コンビ(?)の相方として
東京ローカルにも顔を出しはじめていた

*5
タマネギのたたりであろう

*6
実際にお会いする機会に恵まれたが、時間もなかったし
辻本座長の取材だったのでなにも聞けなかった(TдT)。

2001年末、復帰を応援する木村進のオフィシャルサイトを発見。
知るかぎり、芸能人でもっとも更新頻度の少ないサイトである。
(2011年現在、最後の更新から約10年が経過している)
「オレ死んでへんで生きてんで!イッヒッヒッヒ」
http://homepage1.nifty.com/fujii-seikotuin/kimura.htm